気がつくと、そこは病室だった。
私のいるその部屋は、まだ意識が朦朧とする、そんな状態の人たちばかりの部屋だった。
ここは、手術してまだ間もない人たちが入れられる場所で、
今手術を終えたばかりであろう人たちが、身体に管をつけられ
私以外にも3名ほどいた。
そう。。
年も明けたこの冬の寒い日、私は手術を受けたのだった。
あの五度目の異変から、1ヶ月ほどが経って
やっとあの異変に終止符が打てた日であった。
誰一人として動けない状態の人たちの中で、加湿器の音だけが
シューシューと聞こえていた。
私は、なかなか麻酔から覚めなくてボーっとした状態が続いていた。
天井を見上げるとグルグルとうねっているように見えて目が回った。
その晩は、私にとって人生最悪の日でもあった。
・・というのも、麻酔の影響なのか、医者もはっきりとは
分からないようだったが、手術から十数時間たった夜中になっても
私の天井が回って見える状態が続き、激しい吐き気に襲われたのだ。
1日中何も食べずに点滴だけだったせいもあって、私の胃には、吐き出すものなど
何も残っていなかった。
それなのに、こみ上げてくる激しい吐き気に
私は深夜のナースコールを押すしか他なかった。
駆けつけてくれる看護師さんが、吐き気止めの点滴やら
背中を擦ってくれるやらで、その場を何とかしのぐ事が出来たが、
その激しい吐き気は、結局、空が白み始める明け方まで続いたのだった。
「あー、痛いし気持ち悪いし・・」
こんな状態の自分を今まで経験したことが無かった。
あまりにも激しい吐き気と苦しさに、私は身を硬くするしかなかった程だ。
私はこの部屋に、この日から3日間入っていた。
腹部を切っているので、身体を起こすことも寝返りを打つことも出来ない状態で
ずっとベッドに横になったままの状態がとてもきつかった。
そして、何よりも一番困ったことが二つあった。
その一つが「くしゃみ」だった。
看護師さんが病室を出たり入ったりするたびに
ひんやりした冷気が部屋の中に流れ込み、鼻を刺激するのだ。
この時、思いっきり
「ッヘックシーンッッ!!!」
・・とドリフターズのカトちゃんみたいに出来たら
どんなに気持ちよかっただろう。
でも、おなかの傷が痛くてそんな恐ろしいこと出来やしない!!
そして、もう一つ困ったことが「笑い」だった。
同じ日に同じ手術を受けた同室にいる他の人たちと
ベッドに寝ながら身体の状態を話し合ったり、
どこどこが痛いときはこうすると楽だよーとか言い合っていたりすると
自然に仲良くなって、冗談をいいあったりするようになった。
おかしさがこみ上げてきて、ついつい
「プーッ!!」
っと噴出してしまうと、まだふさがっていない腹部の傷が
パックリ開く感じがして、激痛が走るのだった。
部屋の一人が何か冗談を言うと、
「○○さーん!勘弁して~
あー、いたたたたっっ!!!」
おなかのジンジンジンジンする痛みに絶えながら
冗談を言い合う3日目が過ぎていった。
****
4日目になると、看護師さんが午前中からやってきて
大声でこう言った。
「はーい、起きて起きて!
どんどん歩いてね!
自分の元いた病室まで 歩いて行って下さい!」
部屋にいた一同は揃いも揃って
「えーっ!!!」
「もう歩くのぉ?!うっそぉ~~!!!」
そうこう言っているうちに、あっという間に
看護師さんに布団を剥ぎ取られ、起き上がらざるを得ない状態になってしまった。
「うぎゃー!!」
「い・・痛い!!」
起き上がろうとしておなかに力を入れるたび
激痛が走るが、看護師さんはとっても冷静に
「はーい、早く自分の病室に戻ってください!」
と、なんとも厳しい~お言葉。。
従うしかない私たちは、身を海老のように丸めながら
冷たい廊下を点滴を下げながら歩くしかなかったのだ。
「すごいな~、スパルタだな~」
手術した病人が一刻も早く歩けるようになるために取られている処置なのだが
この「歩け!歩け!!」に、入院初心者の私は肝をつぶしたのだった。
そして久しぶりに(3日ぶりに?)帰ってきました、一般病棟。
入院生活がそろそろ1年に達しようかと言う70代のやせた女性が、
ベッドの上で編み物を編んでいた。
「あー。。なんて穏やかなんだ、ここは。。」
3日間過ごしたあの病室とは全く違う空気感に
私はここが病院だという事を忘れて和みを感じる程だった。
おなかをかばって丸くなりながらベッドに横になると
「あー、やれやれ」
と、自分がとってもリラックスしているのに気がついた。
考えてみると・・
こんな身体をゆっくり休ませる時間を持つなんて、
ここ数年全然取っていなかったなぁ~、とつくづく感じた。
そして私は入院し、手術まで受け
大きな残るであろう傷を負ったにも関わらず、心がとっても軽くなっていた。
そんな自分の置かれた状況と、心の平和のギャップが
なんだか変な気分だった。
そして、その変な気分を感じているうちに、
急にある「思い」がこみ上げてきたのだ。
「そうだ。。私は逃げたかったんだ。」
急に湧き上がってきたこの気持ちに、自分自身がびっくりした。
そしてそれからあふれ出るように
「逃げたかった。。逃げたかったんだ!」
「そうなんだ、そうなんだ!!」
仕事から・・そして生活から・・
ぜーんぶ放り出して、そのプレッシャーやら義務感やらから
とにかく逃げたかったんだ。
解放されたかったんだ。
もう、終電が無くなるほど自分の精神と身体を酷使するような
そんな仕事や生活から手を引きたかったんだ。
私はその時、はじめて自分の心の底に隠れていた「本心」に気がついたのだ。
私の心の底で感じていた「もう仕事やめたい、何もかも投げ出して逃げてしまいたい」、
その思いが、「病気になる」という現実を引き寄せ
「病院に入らざるを得ない状況」を作り出して、私をすべてのものから
引き離してくれたのだった。
一瞬にしてすべてを理解したのだった。
私は私を解放したんだ。
自由にしたんだ。
だって、自由になりたかったんだもん。
自由・・解放!!
入院・手術という手段を使って私はそれを手に入れたのか。。。
本心では、「もうやめたい・この生活を変えたい」と思っていたのに
私は自分の気持ちを無視し続けていたんだと分かった。
私の本当の心は、私にその生活を変えるきっかけや気づきを
この2年半もの間、体調が悪くなる・救急車で運ばれる・という事柄によって
私に伝えようとしていたんだ。
それなのに・・
私はそれすらも無視し続けて、
「やらなきゃ、やらなきゃ」
と、自分を追い詰めてきてしまっていたんだ。
心で思っていることと、現実に行っていることのギャップが
私に警鐘を鳴らしていたんだ。
そして・・
ついには、もうすぐに手術をしなければならない位までになって
私は自分の状態にやっと目を向けたんだ。
そんな思いが頭の中を去来しながら、私は目頭が熱くなっていた。
「ごめん、ごめんよ、私。
こんな切羽詰った状態になるまで
自分の気持ちを無視し続けて・・ほんとにごめんなさい。」
私は私に謝った。
申し訳なかったと言う気持ちが心の底から沸いてきていた。
そんな気持ちがどんどんあふれ出てきて、涙が出てきて仕方がなかった。
同室の人たちに気づかれないように、私は背中を丸めて涙を拭うのだった。
****
翌朝、私はやけに早くに目が覚めた。
周りを見渡すと、まだ夜が明けていなくて暗かった。
おなかをかばって背中を丸くしながらゆっくりと
ベッドから起き上がってみた。
同室の人たちは、まだ仕切りのカーテンを引いたままで
みなまだ寝てるみたいだ。
私はそんな早くから、病院内を歩いてみることにした。
廊下に出ると、私と同じようにすでに起きている人たちが
二人ほどいて、お手洗いから丁度出てきたときだった。
いずれも、70代くらいの人たちで
私はペコリと頭を軽く下げながら挨拶をした。
病院の長い廊下を歩いていくと、突き当たりに階段があって
シーンと静まり返っているのと、ひんやりとても寒かった。
階段まで来ると、私は一つ上の踊り場まで上ってみた。
その踊り場から外を臨むと、眼下に林が広がっていて
まだ薄暗いその林が、夜の海のように見えた。
「さ・・さぶっっ」
私はパジャマで肩掛け一枚。
身震いを感じながら、少しずつ明るくなってくる空に
目を凝らしていた。
空が・・濃いブルーから薄紫色に変わっていくのが
よく見えた。
そして、林の向こうの遠い山並み付近の空が
だんだんと赤く、オレンジ色になっていくのが分かった。
「あー、日の出だぁ。日の出だぁ。。」
日の出を見るなんて、一体どのくらいぶりなんだろう。
一日がこうやって生まれてくるなんてこと、
もうすっかり忘れてしまっていた・・。
空の表情がだんだんと赤く染まって
ついに遠くから赤々とした太陽が顔を出し始めた。
踊り場で見ている私の顔に、太陽の日差しが
ゆっくりと照ってきた。
「あったかい・・」
その時、私は身体から力が沸いてくるように感じて、
胸の辺りがあったかくなっていった。
なんだか分からないけど。。
どうしてこんな感じがするのか分からないけど。。
「ありがとうございます。ありがとうございます。。」
胸に湧き上がってくる気持ちが
身体中にジーンとしみた。
そしてまた、目頭が熱くなっていきながら
日の出に感動したのだった。
この日の出を見たことによって私は
今まで自分の気持ちを全く無視して過ごして来てしまった事。。
身体が警鐘を鳴らしているのに無視し続けて来てしまった事。。
昨日は自分の本当の心に気がついて、涙があふれて止まらなかった。
でもでも、
こんなにあったかいんだ・・
こんなにありがたいんだ・・
そんな思いが沸いてくる自分を、なんだか少し嬉しく思った。
そして、分けもわからず
「ありがとうございます。」
この気持ちが沸いてくるのに、身を任せ
心の中でその言葉を何度も何度も繰り返しているのだった。
****
(4)へ続く・・・
